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天皇家は縄文系のY染色体DNAを保有している

 投稿者:石見介  投稿日:2016年 2月14日(日)13時33分2秒
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   と最近では考えられています。王朝交代説を考慮しても、少なくとも現天皇家に直接つながる継体欽明皇統が、縄文系とされるY染色体DNAハプログループ(Y-DNAと略称)のY-D1b(旧D2)である事は、ほぼ確実だろうと考えられます。皇族のY-DNAが検査されて結果が公表されない以上、飽くまでも推測レベルでしか書けないのは残念ですが。しかし最近のY-DNA情報では、桓武天皇に出自する桓武平氏鎌倉党の大庭景義(源平争乱時代の武将で、『平治物語』や『吾妻鑑』にも登場)や江戸時代初期の東山天皇が,Y-D1bだと報告されています。彼らの共通祖先の桓武天皇は、ご承知の通り、父系では天智天皇の曽孫であり、母系では百済系帰化人とされる高野新笠の息子に当たります。

 照参考さんが何度も私の指摘した既に破綻した埴原和郎氏の「渡来人超大量渡来説」(弥生時代開始期以降古墳時代末までの1000年間に当初説で300万人、後に下方修正して130万人の直接の渡来があった)を、未だに信奉されていますが、下條信行氏監修『列島初期稲作の担い手は誰か』(すいれん舎)の第1章や巻末の下條氏との対談で、考古学者で九州大学教授の田中良之氏が述べられているように(埴原氏の説を「超大量渡来説」と名付けたのは田中氏ですが、多分に皮肉が雑じっているとおもわれます)、考古学的に九州北部に於いても渡来系弥生人は必ずしも多数派ではなかった事実が指摘されています。下條氏は考古学者(愛媛大学名誉教授)ですが、邪馬台国九州説でした(現在の立場は確認していません)。一方邪馬台国畿内説を採る考古学者石野博信氏の著書『弥生興亡 女王卑弥呼の登場』(文英堂)でも、巻末の石野氏、神話学者吉田敦彦氏、人類学者片山一道氏との鼎談などからも、九州北部の弥生人骨の特異性と地域性が指摘されており、現在は埴原説の大量渡来説はほぼ否定されている状況です。そもそも縄文時代晩期の人口推定である小山修三氏の推計値についても、小山氏自身が留保している部分があるのですが、その数字のみ一人歩きしていることは前掲著書の対談内で田中氏の指摘している通りです。
 現時点で、九州や近畿の考古学者の間で、弥生時代初期の渡来者はごく少数であった事は合意されていると考えらえます。前期末から中期にかけては、それなりの氏族・部族単位での渡来も想定可能ですが、早期や前期には、縄文人の村に受け入れられた形での移住であったことが、考古学的にほぼ立証されています。田中氏が論難していますが、北部九州の渡来人と在来系(縄文系)の人口比を算出するのに、松菊里式の円形住居はすべて渡来人、縄文以来の方形住居は在来系として、人口推計する研究があったそうですが、松菊里式の円形住居も伐採石斧は半島系ではなく、縄文系の伐採石斧を使用している(下條氏)ように、四方に柱を使用したがっしりした縄文以来の方形住居よりも、柱2本で簡易に建てられるが脆弱な松菊里式の円形住居も、縄文系の伐採石斧を使用しており、縄文系の人々が、円形住居の建設や居住にもかかわっていた事は明白です。列島初期稲作の担い手は、半島からの移民を受け入れ、その技術指導に従った在来系弥生人(すなわち縄文系の人々の弥生人化した集団)が主だったことは、現時点の考古学者のほぼ合意になりつつあると考えられます。縄文人も、ダイズを中心とした栽培穀物を全国的に展開しており、灌漑水田農耕を含めた稲作農耕を受容する準備の整っていた「狩猟栽培民」(これは熊本大学教授の考古学者小畑弘己氏の提唱)だったのです。
 現代日本人の遺伝的な祖先は、縄文系が少なくとも40%、多く見積もれば60%以上だとも考えられます。
 
 
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