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神武天皇の生きた時代

 投稿者:蔚山人  投稿日:2017年 9月22日(金)11時31分46秒
  太国様

神武天皇は、私は確実に実在したと思っています。

宮崎県高原町には、円墳のみの6基からなる皇子原(おうじばる)古墳群が狭野神社の西側の丘陵上にあり、ここで狭野尊(さののみこと)、後の神武天皇が生まれたと云われています。この近くには小さい頃遊んだ御池(皇子港)があり、数多くの伝承が残されています。産場石(うべし)、血捨之木(ちしゃのき)、宮の宇都(みやのうと)、祓原、祓川、御腰掛石、佐野渡、馬登(まのぼり)などです。

狭野神社の創建は古く、第五代考昭天皇の時代と言われています。祭神は神武天皇です。ここは皇室の尊崇が厚く、各宮様方がこの地に寄られた際記念の植樹をされる栄に浴しています。このことは、この地がまさに神武天皇の誕生の地であることを、天皇家が証明しているものです。

神武天皇は15才から45才まで、宮崎市の皇居屋(こぐや)に移られ、ここを御所にされたと伝えられます。ここには現在皇居神社になっており、すぐ横の空地からは弥生時代の土器が今でも顔を出しているのを拝見できます。この皇宮屋と卑弥呼の墓の笠置山の間は柏(かしわ)田と呼びます。この言葉は、後に橿原という名前で、畿内に移るようですね

『記紀』では、天皇が即位した年は「太歳」と表現します。神武天皇は奈良の橿原で即位したようになっていますが、この年はこの太歳ではありません。このことは神武天皇が即位したのが、まだ宮崎にいた頃で近畿に東征する数年前の出来事だったと推察されます。この皇居屋で即位したのでしょう。古代の人々もそう感じていたのでしょう。

「瓊々杵尊日向宮崎宮に崩じ給ふ。神武天皇亦初め日向宮崎に都し給ふ。」(奈良朝末の藤原浜成)
「人皇の始神武天皇日向国宮崎の郡に帝都を立て御即位ありし云々」(平家物語 俊寛遠流の粂)
「神武天皇日向宮崎の宮に都し給ひき」(神武正統記)

神武東征の実際の年代について考証したいと思います。ここで参考になるのが、神武が浪速に達した後、河内潟(草香江)を通り、日下に至る『日本書紀』の記事です。

■ 戊午年(つちのえうまのとし)の春二月(きさらぎ)丁酉(ひのと・とり)の朔(ついたち)丁未(ひのと・ひつじ)。 皇師(みいくさ)遂に東す。 舳艫(じくろ)相い接し、方(まさ)に難波之碕(なにわのさき)に到るに、奔(はや)き潮有りて太(はなは)だ急(はや)きに曾いき。 因りて以ちて名づけて浪速國(なみはやのくに)と爲す。 亦(また)は浪花(なみはな)と曰う。今難波(なにわ)と謂うは訛(よこなまれる)也。

■ 三月(やよい)丁卯(ひのと・う)の朔(ついたち)丙子(ひのえ・ね)。 流れを遡(さかのぼ)りて上(のぼ)り、徑(ただ)に河内國(かわちのくに)草香邑(くさかのむら)青雲(あおくも)の白肩之津(しらかたのつ)に至る。」

『大阪平野のおいたち』(梶山彦太郎、市原実著)を始め大阪の古代の地形を述べた書籍を参考に、上町台地や周辺の砂州、河内湖、草ヶ江の出来方の歴史から上記の出来事の年代を探りたいと思います。

1800年~1600年前頃から古墳時代にかけての時期、砂堆(潟)形成が河内湖全体で進行し、河内湖が南北方向の西の河内湖と東西方向に長い草香江(日下江)というT字を寝せたような形となります。古墳時代も湖岸の縮小は進行し、奈良時代では難波の小江となり平安時代には完全に消えてなくなります。

ここで重要なポイントが2つあります。一つは「難波之碕(なにわのさき)に到るに、奔(はや)き潮有りて」という浪速の渡としての海峡の存在です。もう一つは「流れを遡(さかのぼ)りて上(のぼ)り、(中略)、白肩之津(しらかたのつ)に至る。」という記事です。これは河川に似たような流れがあり上を目がけて遡るということで、狭い水路のようなものを通り上流にある白肩之津に至るということです。この白肩之津は、当時の草香(日下)江の東の最上流にあり、この記事は、神武が河内湖と呼ぶような流れがない広い湖を航行したのではないことを示しています。

この両方を満足する時期というと、1800年~1600年前頃に限定されるように思えます。草香江は北からの寝屋川や南からの恩智川などで砂の堆積が進みつつあり、狭い水路状となり川としての水の流れが発生していたと思われます。これらのことを考えると、神武東征の出来事は、河内湖がまだ楕円状の湖だった2000年前ごろではなく、狭まってきた1700年前位に起こった出来事ではないかと推察されます。

神武天皇が活躍した時期は天照大神から数代を得た後ですので、西暦300年前後とするのが良いでしょう。これらを考慮すると、前667年~前585年となっている神武天皇は、干支の一致する294年~318年とするのが妥当だと考えます。
 
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 9月21日(木)22時02分29秒
  竹島っていうのは笹の島だってことだな。
つまり日本の天皇かその代役人物が世界統治を行う始まりたる半島進出の
第一歩がこの島だ。過去の例で分かるように、その後者のモデルが笹竜胆
の紋所の人物だな。

https://www.youtube.com/watch?v=zmzIWigaauU

「笹」には世界統治の象徴字の『世』が竹カンムリの下にある。
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 9月21日(木)20時38分48秒
  訂正
×欠史八代
○欠歯八代

まぁ×のほうでもいいんだがねえ。w
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 9月21日(木)20時36分39秒
  蔚山人よ
人に答えさせてばかりいないで、オマエも答えたらどうだ?

神武が架空だとかほざいているところを観ると、オマエは
左糖をたっぷりなめていて、欠史八代がフガフガ、スカスカの
代歯脱多の口内だろう?pp 本性を表してきたようだな。
あるいは日本を敵対ばかりしている某国の工作員とか、その
へんだな?ww
オマエはもしくは津田病患者に相違ない?

すーぐ、松沢病院へ行く仕度をせい。

この前の書きこみだが、オマエはそうなると
半島真近のあの楕円形の島で生まれたわけか?w

松沢でなければアーカム・アサイラムにするか~?bb

年の干支は通常暦と倍暦のほうと、双方あったはずだ。

おい、オマエも早く答えろ。
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 9月21日(木)20時23分13秒
  蔚山人よ
オマエの考える初代天皇と年月日等については、まだ分かりませんぜ。
これはどうなんでしょう?
 

都は【肥後大津】に在りました♯026

 投稿者:wajin128  投稿日:2017年 9月21日(木)20時03分38秒
  都は【肥後大津】に在りました♯026

【水行二十日】
奴國から南の投馬國までの【水行二十日】とは、御笠川をさかのぼって大宰府まで行き、大宰府から宝満川を下って筑後川との合流地点にある、かつての【妻(投馬)】までの移動を語っていると思われます。

もちろん御笠川や宝満川の本流を移動したのではなく、筑後川を含めて運河を築き、その運河を利用したのでしょう。
おそらく水田用としても利用していたはずです。

【水行十日】
【水行十日陸行一月】の【水行十日】とは、かつての【妻(久留米から八女付近)】から筑後川沿いの運河を下って【柳川】付近までの移動を語っています。
柳川から先の【陸行一月】は、南に向かう運河が無いために陸行に切り替えたものと思われます。


倭人は物資の輸送には有明海を利用した事でしょう。
郡の使者が船を利用しなかったのは、魏帝の【全ての倭人に、全贈物を示せ】という命令を受けていたためです。

?
 

教えて下さい

 投稿者:蔚山人  投稿日:2017年 9月21日(木)19時28分8秒
  太国様

貴殿の考える2倍歴については、よく分かりませんでした。

それでは、日本書記では干支(10干、12支)が使われていますが、これは現在の1年単位です。これと2倍歴は関係があるのでしょうか。
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 9月21日(木)09時59分20秒
  コチラはW氏ではない。

盲象+酔象 はもうやめにせい。
 

正体の暴露は面白いね!

 投稿者:三人目の読者  投稿日:2017年 9月21日(木)09時56分4秒
編集済
  一読者、もう一人の読者が退場されたようなので、三人目の読者が引き継ぎます。
この掲示板の題名「おもしろい古代史」は、トンデモ説が溢れていて、
途方もない珍説に抱腹絶倒しています。
さらに、正体の暴露記事も非常に興味を惹きます。
数人の方の投稿から、
今春永⇒照参考⇒大畠へと、遂に正体が解明されました。

そして今度は、恐らく誰も予想だにしなかったwajin128の正体も、
wajin⇒wajin128⇒太国
もう一人の読者によって暴露されました。

もっとも、暴露されたご当人は即座に「盲象」と強い言葉で反駁されています。
しかし、もう一人の読者さんの推察は十分に納得できます。

蔚山人さんがwajin128に批判的な投稿をされるや、
まず、太国さんが反応され、次いで、間髪いれず、wajin128さんが太国さんに援護射撃。
これではどう見ても同一人としか思えません。

wajinさんを良く知っておられる福島さんや蔚山人さんが異論を唱えられるような事があれば、
太国さんの汚名は晴らされることになるでしょう。そう願っています。

 

都は【肥後大津】に在りました♯025

 投稿者:wajin128  投稿日:2017年 9月21日(木)07時01分7秒
  都は【肥後大津】に在りました♯025

【南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月】
投馬國から南へ邪馬壹國の女王の治所(職務先)、都(つ)という邑(村)まで、水行十日陸行一月で至る。

【官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸】
邪馬壹(やまと)國の官を伊支馬、次を彌馬升、次を彌馬獲支、次を奴佳鞮と言う。
七萬戸余りの家が在る。


漢字(中国語)の【所】には【地方(ローカル)】あるいは【職場】と言う意味が有ります。
したがって【都(つ)】は女王卑弥呼が支配する、邪馬壹國の中に存在した【邑】ということになります。
おそらく【都】は【津(つ)】の当て字(仮借文字)と思われますが【津】とは人で賑わう港という意味です。

奴國(博多湾)から邪馬壹國の都(熊本県菊池郡大津町)までの距離は【1,300里(178km)】になります。
?
 

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