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  1. 邪馬台三国志 戦わずして勝つ〈英雄列伝〉(77)
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RE: 難升米一行の行程について

 投稿者:滑安房守  投稿日:2017年 4月24日(月)18時33分22秒
  面目愛古様

お教え有難うございます。
なるほど、原文に遡って見ておりませんでした。
仰るとおりですね。

拙いながら、安房守に、反論出来る余地は有るだろうかと、考えてみました。
長文、失礼致します。

景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。
ここまでは、お教えの通り、難升米等は詣郡とありますから郡に着いたのでしょう。

この頃の魏の状況を見ます。
蜀の諸葛孔明は死亡し、直接的な京都への侵攻を受ける危険は減ったものの、呉、蜀ともに、健在で、魏は安定期とまでは言えぬと思います。
反乱などが、相次いでいるようで、その手当に大変であるなか、遼東へ司馬懿を派遣しました。
(明帝記http://www.guoxue123.com/shibu/0101/00sgzf/002.htmの関係箇所と見られるところを独断で記します。)

景初元年
 秋七月 丁卯,司徒陳矯薨。孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡,荊州刺史胡質等擊之,然退走。初,權遣使浮海與高句驪通,欲襲遼東。遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑、烏丸屯遼東南界,璽書?公孫淵。淵發兵反,儉進軍討之,會連雨十日,遼水大漲,詔儉引軍還。右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督王護留等居遼東,率部眾隨儉?附。
  己卯,詔遼東將吏士民為淵所脅略不得降者,一切赦之。
  辛卯,太白晝見。淵自儉還,遂自立為燕王,置百官,稱紹漢元年。詔青、兗、幽、冀四州大作海船。
 九月,冀、兗、徐、豫四州民遇水,遣侍御史循行沒溺死亡及失財?者,在所開倉振救之。
 十二月 丁巳,分襄陽臨沮、宜城、?陽、??音其己反。四縣,置襄陽南部都尉。

二年
 春正月,詔太尉司馬宣王帥眾討遼東。干竇晉紀曰:帝問宣王曰:「住還幾日?」對曰:「往百日,攻百日;還百日,以六十日為休息,如此,一年足矣。」
 二月 壬寅,分沛國蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹洨音胡交反。虹音絳。十縣為汝陰郡。宋縣、陳郡苦縣皆屬譙郡。以沛、杼秋、公丘、彭城豐國、廣戚,并五縣為沛王國。
 秋八月,燒當羌王芒中、注詣等叛,涼州刺史率諸郡攻討,斬注詣首。
  丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。
 冬十一月,?討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差。初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。帝曰:「四千里征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。
  壬午,以司空衛臻為司徒,司隸校尉崔林為司空。
 十二月 乙丑,帝寢疾不豫。

三年
 春正月 丁亥,太尉宣王還至河?,帝驛馬召到,引入臥?,執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。〔一〕即日,帝崩于嘉福殿,〔二〕時年三十六。〔三〕癸丑,葬高平陵。〔四〕


景初二年六月と言うと、司馬懿の軍は公孫氏の討伐のため、遼東に既に着いていて戦闘中であったと思われます。
公孫氏側も、司馬懿の軍を迎撃していたと考えられます。

もちろん劉夏も、戦いに備えていたか、参加していたと思われます。

続く文、「太守劉夏遣吏將送詣京都」をどのように理解すべきでしょうか。

一般的に考えますと、出先の機関は、中央に対して、このような戦時に、このような使いが来たので、どのように扱うべきでしょうかと、お伺いをたてるような気が致します。
そのために、劉夏は官吏を京都に送り出した。


其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都?牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利?遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、〔一〕絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到?受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」

其年十二月,詔書報倭女王曰と帶方太守劉夏遣使送をどのように考えるか。

帶方太守劉夏からの問い合わせに対して、劉夏へ使者を送って詔書でこう報じたと、解釈ができる気が致します。
「裝封付帶方太守假授」帶方太守の封を付けて假授しろ「皆裝封付難升米、牛利還到?受」は、全て裝封を付けて、難升米、牛利が帰る時に録と共に渡せと考えるとどうでしょうか。

極論を言えば、景初二年の十二月の「乙丑,帝寢疾不豫」翌月には明帝が亡くなる時に、明帝へ直接、謁見できる可能性はゼロに近く、また謁見したとの記録は見出せません。

これでは、難升米と都?牛利は、女王への復命が出来ず、劉夏へお願いをして、やり取りが有った後、謁見に近い事が出来たのが、景初三年六月に少帝と、考える事も可能かと思います。

安房守は中国語が出来ず、感覚的に、勝手に読み取っていますので、恣意的と言える誤りが多々あると考えます。
小僧っ子が勝手なことをほざいているとして、ご指摘ならびにご教示と、お許しを賜りたいと存じます。
 
 

難升米一行の行程について

 投稿者:面目愛古  投稿日:2017年 4月24日(月)07時03分26秒
編集済
  安房守 様

先ずは、原文から大夫難升米の行程を時系列で辿って見ましょう.

景初二年六月
倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏送詣京都

其年十二月
詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼


景初2年6月に、
卑彌呼女王の倭使大夫難升米一行は帯方郡に到着し、帯方郡の太守に明帝への朝献を願い出た.
郡の太守劉夏は使者を派遣し、倭使一行を京都(洛陽)に案内させた.

景初2年12月に、
大夫難升米は魏帝から、倭女王への「親魏倭王卑弥呼に認定する詔書」を拝受した.

以上が私の理解です.

 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 4月23日(日)21時58分14秒
  石見介さん
禁じ手っていうのは論説じゃありませんぜ。

貴方のいうのは ↓ が紀と合わないんですよ。

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RE:沖縄の旧暦の行事

 投稿者:石見介  投稿日:2017年 4月23日(日)20時15分11秒
   蔚山人様
 沖縄の旧暦の行事については、沖縄が、弥生社会に属していない事を考えると、比較の意味はないように思われます。琉球は、倭寇対策の為もあり、明以降優遇策をうけています。その進貢船や船大工、その他も、中国から与えられたほどでした。初めから、中国の「正朔」を奉じた暦法体系で、祭祀が行われたと解釈すべきです。

 尚、私は、倍暦は存在したと考えていますが、太國さんのように、3倍暦や或いは4倍暦、と言った暦法の存在までは、想定していません。古代天皇の寿命は倍暦で説明可能なものが殆どですが、それでも3倍暦であれば、もっともらしい寿命になるのに、と思いはしますが、そのような恣意的な考えで、物差しを動かす、というのは、禁じ手だと考えています。辛酉革命説により、記紀編纂者は、倭暦の倍暦を知りつつも、その1トシを、中国流太陰太陽暦の1年に換算した、と思いますが、それ以外に、BC660年に神武即位紀元を遡及させるためには、何らかの年代操作をしたはずだとも考えていますが、それがどのような方法だったか?は、未だ推測するに至ってはいません。たとえば纏向三代(崇神、垂仁、景行)のような特定の天皇のみ、寿命を水増ししたとか、或いはやはり特定の数代に限って、例えば10年とか20年とかを、その在位期間及び寿命に追加した、とか考えていますが、未だ試案を得る段階にすら至ってはいません。
 

三角縁神獣鏡の謎

 投稿者:石見介  投稿日:2017年 4月23日(日)19時55分40秒
   面目愛古様
 「三角縁神獣鏡の全量国産説」有意義なご教示有難うございます。
 全部が国産だという証明は悪魔の証明の類で、実質的に不可能だという、私の考えに対する、一つの回答と言う事になり得ますが、私も以前からまず中国産の三角縁神獣鏡、というのは、日本国内からは、出土し得ないだろう、出土するとすれば、中国国内から偶然に墳墓などから発見されるのみだろうと予想しておりましたので、異論はありません。が、しかし、卑弥呼が下賜された銅鏡100枚やその後の追賜の銅鏡の中に、「特注の」紀年入り銅鏡が存在し得たことまで、否定できるわけではありません。倭の青銅器工人が卑弥呼が下賜された紀年入り銅鏡を原型鏡として、模造鏡を製作する事は可能だからです。

 まず、倭人緒青銅器制作能力は、高熱を要する鉄器の場合とは異なり、比較的中国人工人に近いものであったと考えられる事、場合によっては、後漢末期からの国力衰退に伴って、尚方その他の国家の維持する鏡職人の能力は、基本的に低下した可能性がある事と、一方では倭人の銅鏡好みと言う「需要」に対応して、青銅器工人の製作能力が高まった可能性双方から、旧銅鐸工人などが転身して、銅鏡工人になった(銅鐸の製造技術はかなり高度だったと思います)ことや、三角縁新儒教が、新たな祭祀(卑弥呼の鬼道?)に魔鏡として使用された可能性などを考えると、下賜された姓銅鏡の大半は、後漢鏡だとしても、数面の魏鏡があり、その中には、紀年今日もあった可能性までは否定できないのです。倭人が、画像鏡の神獣や、紀年鏡の、いくつかの文様や文字から、組み合わせて、紀年入りの三角縁神獣鏡を作った可能性よりも、本場中国で、原型となる意匠が完成し、その青銅鏡の実物を見て、倭で模倣した、という可能性の方が、高いのではないか?と私は考えるからです。

 何れにしても三角縁神獣鏡は、邪馬台国近畿説か、九州からの東遷説を、裏付ける考古資料、という位置づけは、変わらないと思います。
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 4月23日(日)17時52分22秒
  それに、それでもさっき沖縄の表のごとくだったと、当時の古代の天皇の時代がこれだ
ったと主張するならば、なんと仁徳以前の殆どの天皇が百数十歳もの寿命を断続連続的
誇って生存していたということになり、蔚山人の脳内がえらくいかれているとしか思えない。pp
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2017年 4月23日(日)17時46分36秒
  月前半分に縁起担ぎとかで行事をやる傾向は確かにあるも、その全部が月前半に
やってるわけではない。それに人間のは自殺他殺以外は死亡日を選択でき
っこないわけで、それを考えた時、月前半に集まっていて月後半が0の状況
となれば、これは2倍暦等だったと観るのが正解だから、蔚山人の月前半に人為的
に集めていたとかいう主張では古代天皇の当時の時代では説明が成立しない。

つまり2倍暦の否定は棄却される。
 

沖縄の旧暦の行事

 投稿者:蔚山人  投稿日:2017年 4月23日(日)17時22分20秒
編集済
  石見介様、太国様

沖縄では、現在の旧暦の行事として下記のようなものがあります。行事の殆どは月の前半にあります。丁度『記紀』の記録に似た状態です。後半にも少しありますが、これは墓とか昇天とか収穫祭で、萎んでいくイメージのものばかりです。沖縄が今2倍歴で動いているとは聞いていませんが、間違いでしょうか。1年は1年と思いますが。

  旧 暦  行事案内
 1月1日  正月朔日(旧正月)
 1月3日  初起し(ハツィウクシ)
 1月4日          御願立て(ウガンタテ)
 1月7日  七日節句(ナンカヌシク)
 1月16日  十六日祭(じゅうるくにち)・・・・・・・墓前祭
 1月20日  二十日正月(ハチカソーグヮチ)・・・・・正月の終わり
 1月吉日  生年祝い(トゥシビーイワイ)
 2月15日  二月ウマチー(ニングヮツィウマチー)
 2月吉日     屋敷御願(ウシチヌウガン)
 2月吉日  彼岸
 3月3日  浜下り(ハマウリ)
 3月15日  三月ウマチー(サングヮツィウマチー)
 3月吉日     虫払い
 3月吉日  清明(シーミー)
 4月吉日  畦払い(アブシバレー)
 5月4日  四日の日(ユッカヌヒー)
 5月5日  五月五日(グングヮツィグニツィ)
 5月15日  五月ウマチー(グングヮツィウマチー)
 5月吉日  原山勝負(ハルヤマスーブ)
 6月15日  六月ウマチー(ルクグヮツィウマチー)
 6月25日  六月カシチー(ルクグヮツィカシチー)・・稲の収穫祭
 6月吉日  プーリ
 6月吉日  シヌグ
 7月7日  七夕(タナバタ)
 7月13日~15日  旧盆(ウンケー、ナカヌヒー、ウークイ)
 7月吉日  ウンジャミ
 8月8日  トーカチ
 8月10日  八月カシチー(ハチグヮツィカシチー)
 8月15日  八月十五夜(ハチグヮツィジュウゴヤ)
 8月吉日     屋敷御願(ヤシチヌウガン)
 8月吉日  彼岸
 9月7日  カジマヤー祝い
 9月9日  菊酒、グンガチグニチ
 9月吉日  パーントゥー
 10月吉日  種子取(タニドゥル)
 11月13日  冬至(トゥンジー)
  12月8日  鬼餅(ムーチー)
 12月24日  御願解き(ウガンブトゥチ)・・・・・・・火之神の昇天
  12月吉日     屋敷御願(ヤシチヌウガン)
 12月30日  年の夜(トゥシヌユル)・・・・・・・・・年の終わり
 

(無題)

 投稿者:古代狂  投稿日:2017年 4月23日(日)15時11分35秒
  どうでしょう、ついこの間、祝・17万訪問の記事を見たばかりなのに、
18万台への半ばを過ぎてしまいましたね。
この掲示板は、皆さんに注目されているんですね。
私には、正直、やや難しい議論が多いですが、それでもためになるなあ。と思って毎日覗きに来ます。
 

RE:卑弥呼の朝献は景初2年か3年か??

 投稿者:滑安房守  投稿日:2017年 4月23日(日)11時39分53秒
  面目愛古様

安房守の得意である蝙蝠派ですが、謁見は景初三年六月。
日本列島からの出発は、景初ニ年であったが、景初三年に都に到着した。

列島から持っていった文書には「明帝の時代、景初ニ年六月」と記してあった。
遼東などの戦乱で、到着が遅れ、謁見できたのは、景初三年六月となった。

日本書紀は、少帝の起居注から、景初三年六月の謁見を知っていた。
魏書倭人伝では、「景初二年六月 倭の女王 大夫難升米等を遣わし都に詣り 天子に詣りて朝献せんことを求む」との通り、倭からの文書にあったとおり「景初二年六月 倭の女王 朝献せんことを求む」を記録した。

と、勝手に考えました。
駄目ですかね。
 

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